社章の由来と歴史
信用と信頼の「分銅マーク」
明暦3年(1657年)宇和島藩より伊予吉田藩分封時、佐川家は伊予吉田藩の掛屋(現在の日本銀行・国税庁に類するもの)と両替の御用商を命じられました。以後明治維新の廃藩置県までの200年以上「御掛屋」という屋号で伊予吉田藩の藩政を支えました。
こうした佐川家の歴史から、当社の社章には江戸時代に両替商の看板や藩礼などにお金を表す図案として使われていた「分銅」をモチーフとして使用しています。この「分銅」は、現在では銀行を示す地図記号としても採用されており、信用、信頼、正確を象徴するマークであると考えています。
当社はこの社章を掲げ、社会からの信用とお客様との信頼関係を第一とし、そして正確な仕事をする当社の意志を、社内外へ表明しています。
常に自己革新する「代々初代」
近年の日本史において、大きな変革が三つあったといわれています。一つ目は明治維新、二つ目は第二次世界大戦の終戦、そして三つ目はIT革命とインターネットの出現です。
明治維新(1868年)により吉田藩は解体され、これにより家中、町人を問わず、すべての人たちが途方に暮れました。特に、藩の庇護と最大の顧客を失った陣屋町商人の受けた打撃は大きく、その中でも半官半商の特殊な商人として営業してきた佐川家こそ、最大の影響を受けたと思われます。しかし、当時豪商と呼ばれた数ある旧家が軒並み衰退した中にあって、大難をまぬかれ得たのもまた、掛屋としての矜持(きょうじ)、自らを持する堅実な家風あってのことでした。
新時代を迎えて再起を期する苦悩は大変なことだったと想像できます。そんななか佐川家が現在まで続いたのは、当時の祖先が新しい職業として「金物商」を創業をしたことにあります。この変革の時を切り抜けた祖先の遺訓は「代々初代」という佐川家の家訓として、今もなお佐川家に息づいています。
企業や組織を取り巻く環境は常に変化しており、その変化に対応した事業や経営の実践を図っていく必要があるということです。たとえある代が事業を継承したとしても、「代々初代」のつもりで変革にチャレンジしなさいという教えでもあります。
後に佐川家は、第二次世界大戦終戦(1945年)後、(故)佐川重敏が「印刷業」として創業するに至ります。戦争では多くの破壊や社会システムの大変革が行われるため、戦後は社会体制などが新しく作り直され、佐川家を取り巻く環境も大きく変化したことが新しい事業への挑戦となりました。1947年、すでに40代後半となっていた重敏の創業は、戦後の日本と同様で、まさにゼロからのスタートとなりました。
原点 ~活版印刷会社創業~
第二次世界大戦終了間もない1947年(昭和22年)、故 佐川重敏は文化的な仕事をしたいという想いから、全財産を処分し大阪で活版印刷機を購入し、 愛媛県北宇和郡吉田町(旧) 現 宇和島市吉田町に佐川印刷を創業いたしました。
まずは、吉田町を中心に活版印刷でできる仕事の受注を広げて行きました。当時、吉田町には印刷会社はありませんでしたが、隣の宇和島市により大きな印刷会社があったため、新規開拓に行くと「なぜ小さな町の小さな印刷会社に仕事を出さないといけないのか。」と断られることが多かったそうです。重敏も経験のない初めての事業であった上、戦後の復興期での物のない時代で、印刷機械を買いに大阪まで行ったおり騙されるなど、創業の苦労も多く何度も事業を止めてしまいたいと思ったそうです。
活版印刷~オフセットカラー印刷
二代目の佐川 晃は大学を卒業するとすぐに佐川印刷に入社し、重敏を手伝うようになりました。昼夜を問わず、粉骨砕身、家族総出で社業の発展に尽くしました。社員数も徐々に増え営業エリアも南予地域から中予中心に移行し、愛媛県全域をカバーする印刷会社へと発展させました。また、技術に対しても勉強熱心で、活字から写植へ、写植から電算写植へそしてDTPへデジタル化への道筋をつけ、製版技術やオフセットによるカラー印刷技術など現在の佐川印刷の印刷技術の基礎を作り上げました。片田舎の吉田町から県都松山へ進出できたのは晃の力でした。経済成長優先の時代であっても、「常に社員の安全と健康」に気を配り、値段は高くても安全性に優れたドイツ製の印刷設備を優先して導入しました。まさに佐川印刷の中興の祖といえます。また、郷土愛は人一倍強く、南予地域の歴史の研究などにも取り組み出版も行いました。
(佐川印刷刊行書籍)
2000年1月より佐川正純が社長に就任。
「代々初代」「不易流行」を銘とし、印刷を核とした新しい事業領域や地域での事業展開を図っています。
ハイデルベルグ 菊全両面8色オフセット印刷機